あまつち

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Walk Behind The Hunter

言葉にできない「気持ち」を探して ーー 第1話

初めて解体された鹿を見たのは「あまつち」の取材だった。
その時感じた衝撃は今でも忘れられない。単に皮を剥がれた鹿が吊るされていることへの驚きではなく、内的な、自分から沸き上がる心の変化だった。命が失われることによって、命が生かされている。目の前の死はそれを伝えていた。

その鹿は、宮崎県高原町の猟師、牧浩之(まき ひろゆき)氏の納屋に吊るされていた。
すでに前足はなく、後ろ足は開かれて天井につながっている。頭部以外の皮は剥がされ、地面すれすれの口からは最後の血が滴っていた。

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「いただきます」とは”命”をいただきますということ。
食物連鎖の末に人間の口に入る食べ物は、様々な命がつながっている。理解しているつもりだったけれど、その光景を見た時、自分が今まで発してきた「いただきます」と言う言葉の重みが、いかに軽かったということに愕然とした。気持ちを込めていっていたはずのあの言葉は、ただのキャッチフレーズだったのか?苦しくなり、眼に涙と恥ずかしさを感じた。

あの取材から一年が経とうとしている。
あの時感じた「恥ずかしさ」は、「知りたい」という気持ちに変わった。
といっても自分がいきなり猟をやれるわけではないし、いろいろな意味での「資格」もない。猟というのは半端な気持ちでやれるものではないのだ。ただ、牧氏の後を歩くことによって、言葉にならない何かを知ることができるかもしれない、彼の日常に私の求めた答えがあるかもしれない、、
そう思った。

— 第1日目 —

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御池前の集合場所に約束の時間に着くには朝5時半に家を出なければいけない。
着いて早速助手席に乗せてもらい、罠猟の見回りに同行した。

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まずは仕掛けてある罠を一つ一つ確認していく。
最初のポイントには何もかかっていなかったようだ。

猟期が始まってすぐに狩猟者たちが銃を持って山に入って行き、
だいぶ鹿たちを怖がらせたらしい。昼間はめっきり顔を出さないみたいだ。

学習能力のある野生の鹿は、ここ最近、猟の規制がかかる日没後にチョロチョロ出てきて、夜には原っぱでのんびりしているのだそうだ。そして解禁時間になると禁猟区へ消えていく。この日は罠猟の見回りだけではなく、出会いがあれば猟銃も使用するとのことで、彼の師匠から受け継いだ銃を片手に森の奥まで入っている。

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いつ出会うかわからない。
僕は息を潜め、気配を消し、ただ彼の後ろを追いかけて行った。
彼は一体何を考えているのだろう。自分が生きている世界とあまりにも違う世界。森の中で男が一人銃を持って歩いている。遠くで「パンッ」という音が聞こえた。

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鹿と出会わないまま、途中の罠のポイントに通りかかった。
「やられた!」と、悔しそうな表情を隠しながら、牧氏が掛かっていない罠をいじくっている。鹿が踏み板を踏まなかったようだ。踏み板を踏むと前足が板の下に掘られた穴に落ち、そこに仕掛けてあるワイヤーに足を締められるという構造。鹿はこういった罠に対しても学習するらしい。動物対人間の頭脳戦である。

もう一度掘り返し、罠を仕掛け直す。穴のすぐ手前に太い枝を置いていた。その枝を踏まないようにさせ、枝の横にある穴に着地させようという戦略。動物の修正や行動パターンを熟知していないと話にならない。ただ仕掛けただけでは獲物は掛かってくれない。

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先日、霧島市にある「上野原縄文の森」に行った。
そう縄文時代の。資料館に入るとすぐにジオラマがあり、森の中で原始人が罠で動物を捕まえている。僕は鬱蒼とした森を歩きながらそのことを思い出していた。生きるために猟をする。目の前を歩いている彼もまさに同じような人間であった。

縄文の森のジオラマには狩のシーンの他に、儀式のシーンもあり、桜島のような島に向かって壺を掲げたり割ったりして何かを祈っている。牧氏も祈るのであろうか。何に対して?答えてくれるか不明だが聞いてみたくなった。

つづく

text by Hanayuki Higashi / 東 花行

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